平成30年ウエルカムツアー(中原)
11月24日


中原は、中央線勝沼ぶどう郷駅の北に位置し、南東は大滝川を境に菱山と、北西は鬢櫛川を境に牛奥と接し、両河川とともに牛奥の岩戸山、菱山の大滝山の山裾に挟まれた扇状地上にあります。江戸時代は牛奥村中原組、明治時代以降は奥野田村、戦後は菱山村さらに勝沼町中原となりました。中原の南端には牛奥村と菱山村の産土神であった「通神社」があり、参道は中央線により分断されてはいるもの、「通宮」の額を掲げる鳥居は菱山の字鳥居に今も建っています。

 中原には、鬢櫛川左岸に沿い縄文時代から弥生時代の遺跡が広がり、古墳時代後期の塚屋古墳があり、間藤には平安時代の遺跡がありますが、中原を特色づけているのは、伝えられている様々な時代の伝説です。通神社の祭神「瓊々(にに)杵(ぎの)尊(みこと)」にまつわる鬢櫛川、通祭と通道、菱山源氏坂の由来、木曽義仲の家臣中原兼遠にまつわる姥屋敷、女淵、源次郎岳の由来、武田信虎にまつわる妙見社の由来、江戸時代の浄覚さんにまつわる落合の由来など、地区を歩くと伝説とその舞台となった場所に出会うことができます。


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朝の会
1班スタート
一丁林
 一丁林は中原の落合橋下流の鬢櫛川左岸にあります。幅70m長さ450m程の林で、林の中には大きな崖が鬢櫛の流れに沿ってあり、大きく二段に分かれています。上段面は、近年の松食虫の被害で少なくなりましたが、落合橋の下流付近は直径30cmくらいの赤松が目を引き、赤松が無いところにはクヌギの木が大きく育っており、林の中にはカブト虫を追い歩いた小道がいく筋もみられます。下段はクヌギやクリ、河原に近いところにはクルミが育つ自然林となっています。鬢櫛の河原に下ると、中程に小さな5段の滝があり、清らか流れを楽しむ事ができます。ところが鬢櫛川の左右の岸は岩の質が違っています。右岸は粘板岩の岩脈であるのに、左岸の中原側は花崗岩の丸石と土砂が堆積した層となっており、増水した場合中原側の岸が荒い流される可能性が高いと思われます。一丁林の赤松は樹齢からみて、おそらく明治40年の中原の大水害を教訓として幅一町(100m)にわたり植林された防水林ではないかと思われます。
落合と浄覚さん
 現在の勝沼ゴルフコースのクラブハウスのある付近を浄覚平といいます。これは敷地内にある浄覚さんの墓に由来しています。その昔、山境を決めるため、日の出と共に村の中心から歩きはじめ、出会った所を境にすることになり、名主の浄覚さんは約束を守ったが、隣村の名主は夜も明け切らぬうちから歩きはじめ、出会ったところが今の中原の落合で、これを知った村の衆は浄覚さんを責め、いたたまれなくなった浄覚さんは、落合の見える山の上で腹を切り自害してしまいしまた。村の衆は正しいことをした浄覚さんを責めたことを悔い、供養のため立派な石塔を建てたという。元禄三年(1690)十月十九日光連社清誉浄覚と刻まれた笠塔婆の清い誉れの文字に村人の供養の心を伺うことができます。
妙見岩
 落合橋から鬢櫛川(大洞川)を4.5km遡った大滝山の西、源次郎岳の南に当たる牛奥山の山中にある。現在では深沢の上道沢から分岐した嵯峨塩林道により車で行くことができる。林道工事に際し、設置された銘板があり、銘板の下に岩陰が銘板の反対側の斜面を登るとそそり立つ妙見岩に至ることができる。甲斐国志は妙見星が降った跡との伝えがあり、恵林寺記では武田信玄が秩父の妙見山より移し後に恵林寺に移したと記している。伝承および銘板には、天文元年武田信虎が躑躅崎の館で東の空に彗星が落ちるのを見、その場所を探させたところこの岩を見つけ妙見様をまつるようになったといいます。
水害避難の地
 明治40年8月の大水害に際し、中原では落合橋に流木が引っ掛かり、鬢櫛川の流れが変わり、村の中央を流れくだり十八戸の家屋が流失した。この時、入ノ沢北側の高台であるこの地に避難し、難を逃れることができたことを伝える碑があります。小佐手・山村とともに鬢櫛川に沿ってある明治40年水害三碑の一つです。
 池平山中原寺跡
 明治の初めに廃寺となった浄土真宗の寺で、現在境内地は中原地区の集会所・消防詰め所となっています。古くは、三光寺で学んだ学禅坊が恵心僧都作の阿弥陀如来を本尊とし北洞に建立した天台宗の寺で、中興永信は源平合戦で活躍し、近江国柏原荘を賜った柏原弥三郎為親が中原に移り住、宗祖が聖徳太子の霊場を等々力に訪ねたおり、帰依し永信の名を賜り、中原寺を再興したと伝えられています。江戸時代末には本堂・阿弥陀堂・表門・庫裏・地藏敷地を備えていました。(甲斐国社記・寺記より)中原寺と地名を冠した寺は珍しく、寺記の伝えは、中原兼遠の子供の説話の後を受けているようにも思われます。
中原塚屋古墳
 中原字塚屋206 番地に所在する塚屋古墳は、鬢櫛川の両岸にある鬢櫛川古墳群の内、最も上流に築かれたもので、石室内部に馬頭観音がまつられていることから穴観音さんともよばれています。6世紀末から7世紀初頭に築かれたと思われる小規模な横穴式石室を有する円墳ですが、極めて遺存状態が良く、甲府盆地東部の古墳文化を知る上で貴重な史跡です。
 通神社本殿  
 現在中原地区の氏神である本社は、かつては牛奥、菱山の産神で、瓊々杵尊をまつり、瓊々杵尊が年に一度、一宮浅間神社に通われるということから通神社とよばれます。素盞鳴命を合祀します。
 甲州市指定文化財の現本殿は寛文6年(1666)建立の二間社流造で、全体に装飾が少なく落ち着いた感じのする建造物です。手挟・懸魚等の繰型には古い形のものを感じさせ、当時の建築状況の一端を知り得る好例です。 当社には棟札が数多く残されており、後世の補修の経過も良く分かり、社殿の保存状態の極めて良い建物です。建立大工は竹内越前守幸次と棟札に記されています。
 本殿の背後には天照大御神の社をはじめとする多くの末社があります。拝殿前の広場には湯立の竈、蓮華文の手水があり、四方からこの広場に至る道が配置されています。西からの参道にはヅメイリ石、南西の一の鳥居から続くかつての参道は宮川を神戸(河渡)で渡り、腰掛石の脇を通り鎮守の森を抜け拝殿に至り、境内の背後を大滝山に向かう道が通り、大国主命と山の神が祭られています。さらに、拝殿の東脇から大滝川(宮川)を渡りかつて古宮神社(神主屋敷)に至る神主の道があります。
通神社の通祭りと腰掛石
 通神社では、かつて11月酉の日の夜中、ご神体をささげ持った神主が一宮浅間神社山宮へ御幸する祭りが行われていたと甲斐国志は伝えています。
 これは祭神瓊々杵尊(ニニギネノミコト)が山宮の木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)のもとへお忍びで通われるという古事によったもので、その道中は、神社の参道を下り宮川を渡って、菱山地内の通之宮の石鳥居をくぐり、小丸山を巡って、東林院と東林山の間を南進し、日宮の前を通って日休で田草川を渡り、菱山の西塔、明神平を過ぎ、勝沼上町の尾崎神社前を通り、日川の河原に下り、川を渡り上岩崎から下岩崎の「お腰掛け」を過ぎ、岩崎氏館跡の東を抜け、藤井の大神宮の横を抜け、千米寺の釈迦堂の南を通り、石の石林寺の北を抜け、京戸川を渡り鈴郷から山宮に至るもので、その距離は往復14kmにも及んでいます。
 途中、御神体を置き休む場として、腰掛石、腰掛場があったといい、現在中央線脇の参道沿、小丸山の腰掛石、菱山明神平の御腰掛明神、下岩崎の御腰掛石の3箇所が伝残されており、行程からみるとこの他に、菱山の日休、藤井の大神宮、石の石林寺付近と合わせて7箇所ほどあったのではないかと思われる。
 祭りの当日は、牛奥、山、中原、菱山を始めに、道中の小佐手、勝沼、上岩崎、下岩崎、藤井、千米寺、鈴郷の村々でも竃に火をいれてはいけなく、前日団子を作り当日はこれを食べ、扉も閉ざし御幸の姿を見てはいけないことになっていたという。
 また、通い神社神が身支度を整えるため、飛瀑で沐浴し櫛で髪を梳いていたところ櫛が落ち、石に化したことから鬢櫛川の名がついたといいます。
牛奥八石
 牛奥山は、牛奥村、山村、西野原村、熊野村、西広門田村、菱山村、小佐手村、休息村、東後屋敷村、鴨井寺村、上石森村、下石森村など十二ヶ村の入会山となっていました。山村より西の村々は、山村の山稼ぎ道を通り、牛奥を抜け、鬢櫛川を簀子橋で渡り一丁林の脇を通り、落合橋を渡り山に入り柴や燃料となる材木を取り、村々に持ち帰りました。中原では、この道を妙見山道、あるいは嵯峨塩道と分岐点の道標に記しており、道は沿道にある自然石に名をつけ、目印とし、名づけられた石が八か所あったことから全体を「牛奥八石」と呼んでいました。現在確認されているのは鎧の小札のようなひび割れがある「鎧石」、富士山のようなコブがある「富士見石」、石が立つ「立石」の三石で、その他に「豆腐石」、「平石」などもあったといいます。

鬢櫛川女淵の滝
 鬢櫛川にかかる落合橋と簀子橋の中間に、川の流れが直角に曲がる所があり、ここに女淵がある。川面を逆上って行くと岩堂山の裾に、水甕を上からのぞくように丸い滝壷が現れる。その水面に落ちる白い一筋の流れが女淵の滝である。伝説は鎌倉時代、木曽義仲が源頼朝滅ぼされた頃のことである。義仲の重臣中原兼遠の子を源次郎が侍女と共に連れ来て隠れ住んだが、追手が迫るに及び、源次郎は子を守り防戦したが、ついに山上で覚悟を決め自害し、侍女らはこの滝壷に身を投げいれたといいます。以来山を源次郎岳、滝壷を女淵、侍女が住んだ場所を姥(乳母)屋敷、隠棲した村を中原と呼ぶようになったといいます。



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