2015 勝沼フットパス・ウェルカムツアーIN藤井 11月22日(日


〜縄文ロマンと盆地の眺望を楽しむ〜

 フットパスの散策を通じて、地域の内外の皆さんに勝沼の自然や歴史文化、風土を楽しんでいただこうと「勝沼フットパスの会」では、今年もウェルカムツアーを開きました。今回のコースは縄文ロマンと盆地の眺めを楽しむ藤井、千米寺地区をめぐります。葡萄畑の紅葉が残る晩秋の一日、市民ガイドと一緒に歩きました。


日時 2015年11月22日(日)午前9時〜9時30分受付
    スタート 午前9時30分
    ゴール  午後12時ころ ※昼食後解散
集合場所 釈迦堂遺跡博物館/縄文の森広場(建物東側)
     笛吹市一宮町千米寺764番地 TEL 0553-47-3333
      ※駐車場あり
募集人数 80人(先着順)
参加費 1人1,000円(昼食、保険料、入館券付。小学生以下無料)

 主な行程:約3km 所要時間:約2時間30分
スタート:釈迦堂遺跡博物館〜大神宮〜丸藤葡萄酒さん〜藤井の堤〜阿弥陀寺(日本一低い?火の見櫓)〜通い路(古道)〜釈迦堂〜柏尾道道標〜千米寺古墳群〜眺望ポイント〜ゴール:釈迦堂遺跡博物館(昼食、ワイン等)

主催:勝沼フットパスの会 協力:釈迦堂遺跡博物館 丸藤葡萄酒さん 藤井地区の皆さん 千米寺地区の皆さん ある〜くこうしゅう推進協議会 かつぬま朝市会 NPO法人勝沼文化研究所

   
  勝沼町の藤井という地域を巡ります

甲斐国志は村中に藤井という湧水があったので村名となったと記しています。江戸時代から上野組、南組、北組の三組があり、それぞれ、道祖神場、寺院、神社を護り伝えています。藤井村は地理の教科書などにもよく掲載される京戸川扇状地のほぼ中央(扇央)にあり、家並みの中央を県道塩山市川大門線が北東から南西に抜け、この道に沿い笛吹市一宮町の千米寺や石の村があり、三村の南側を中央自動車道が東西に走り抜けており、この建設工事に先立ち行われた発掘調査により、縄文時代の集落跡が発見され、これを後世に伝えるために設置された釈迦堂遺跡博物館があります。

京戸川扇状地
京戸川が形成した扇状地、京戸川に大石川や百田川が合流し、一宮浅間神社の脇を流れる、御手洗川と名を変えることから御手洗川扇状地とも呼ばれます。始まり扇頂部は岩崎山と蜂城山の山裾が両側まっており、この狭戸の地形が京戸(きょうど)川の由来となりました。
 
この場所は別に、京戸川から取水した用水路の分水が始まることから水分(みずわけ)という字名もあります。扇状地の末端は北西方向に長く伸び一宮浅間神社の先にも及んでいますが、北側は日川や坂下川が削り断崖となっています。京戸の奥は石の開拓地とも呼ばれる盆地のような窪地がありその奥に京戸山があり、ここから流れ出た土砂が扇状地を形成したと考えられています。


京戸川扇状地と人の歴史
 この扇状地上に人々が足跡を残す最初は今から一万年以上まえの先土器時代で、この扇状地上で暮らし始めるのは七千年ほど前の縄文時代の早期の終わりから前期の初頭で村の跡が発見されています。以後縄文時代の後期まで連綿と扇状地上には場所を変えながらも村が営まれ続け、扇状地の至るところに遺跡が発見でき、県内でも例のないほどの密集度をもつ縄文時代の遺跡の宝庫になります。ところが次の水田を営む弥生時代になると、遺跡は一宮浅間神社周辺の湧水地帯に移り、扇状地から暮らしの痕跡が消えてしまいます。再び扇状地上を利用するようになるのは6世紀末から7世紀初頭の古墳時代後期まで下り、ただし生活の場としてでは無く、千米寺古墳群と呼ばれる50基近い墳墓を築く地として利用が行われます。



暮らしの場として利用はさらに下り、9世紀の終わりから10世紀の初め、京戸の奥の窪地、蓮池の一帯に補陀落山東泉寺という山寺が創建され、信仰の場所として僧侶の生活が始められ、10世紀後半になり台地上の住居がぽつりぽつり営まれるようになり、畑地としての開発が始まったと考えられます。それでも江戸時代の中ごろまで、中央道より上の当りは絵図では山林として描かれており、江戸時代の後半頃、この森を開墾することになり、関係する上岩崎、下岩崎、中尾、野呂、藤井、千米寺、石の村々放射状に等分し、その境に土手と森を残して開墾を行い、中央に上り道を作り両側を畑にした結果、藤井の扇状地には縦道はあるが横道が無いという独特な道環境が生まれ、放射状の分割はこのときよりも前にも行われたようで、今でも、藤井の中心である公民館は一宮町中尾の住所地になっており、一宮町と勝沼町の土地が互い入れ違うようにあります。


釈迦堂遺跡
 藤井の柿木平遺跡と千米寺塚越遺跡を中央道が通過することになり、平成4年から発掘調査が2年間に渡り行われました。当初は2つの遺跡と考えられていましたが、調査を行ってみると、主に4つの縄文時代の集落遺跡で有ることが分かり、遺跡の全体は千米寺にも藤井にも共通してある「釈迦堂」地名を取、釈迦堂遺跡群と呼び、4つの集落遺跡は西より塚越北、塚越、三口平神、野呂原地区と呼ぶこととしました。塚越北地区は主に縄文時代前期の集落跡、塚越地区は縄文時代早期末から前期初頭の集落跡、三口神平と野呂原地区は縄文時代中期の集落跡で、発見された竪穴住居数は220基余と山梨県内では、最大の住居群の発掘調査となりました。調査途中から遺跡の規模の大きさ、土偶の発見数量が極めて多いいことから注目され、二年の調査期間中に2万人以上の人々が見学に訪づれ、調査後、復元された土器などすべての出土品が現在、釈迦堂遺跡博物館に保管されており、その中の5599点が国の重要文化財に指定されています。


■4千年前の暮らしの跡
〜釈迦堂遺跡群〜
中央自動車道の建設に伴い、昭和55年から2年近く発掘調査された縄文時代を中心とした遺跡群。竪穴式住居数は220基余で山梨県内では最大。土偶の発見数量が非常に多く、5,599点が国の重要文化財に指定されています。昭和63年に現地に博物館が建設され、中央道釈迦堂PAからも行き来ができます。


釈迦堂遺跡博物館
 昭和63年11月、釈迦堂遺跡の出土品を現地において保存、公開する施設として、山梨県の支援を得ながら旧勝沼町と旧一宮町が協力し組合立博物館として設置開館した施設、規模は小さいながらも、眺望に恵まれており、中央道釈迦堂パーキングエリアから専用階段で来館することもできる。特に、桃の花が咲く四月には、絶好の眺望場所として多くの来館者があり、年間を通じ様々なイベントが行われています。



中央高速道釈迦堂パーキング
1982年(昭和57年)11月10日 - 勝沼IC-甲府昭和ICの開通に伴い、PAとBSを供用開始。



円常坊
上野組の妙谷山円常坊は日蓮宗休息の立正寺の末寺、由来等は伝えられていませんが、山門も備え、藤井の中心にあることから、藤井村の要として建立された寺であることは間違いないと思われます。境内には、天保5年日蓮五百十年遠忌に建立された「円常坊」に碑や七面大明神の石碑などがあり、墓地には戦国から桃山時代の五輪塔などがあります。



   
   
   
   
受付
ガイドの紹介
扇状地の上部の京戸川の水わけから均等に水も道も、土手で放射状に区切った、藤井に行く
上岩崎、下岩崎、藤井、野呂、中尾、石、千米寺
通い道にでる。浅間神社のコノハナサクヤ姫は富士山の神様なのにおみゆきさんという水防祈願に行く、11月にお役目を終えて奥の宮で冬籠り通神社の(ニニギ)ご神体が慰めにいく。夜出て朝までに戻る。その夜は団子をたいて家の中にいてそとを見てはいけない。神主さんが丸い神体を抱えて中原から歩く。江戸時代まで。途中休憩するお腰掛という大きなが石が200M単位に通り道にあったが今は腰掛明神として残っているのは1つ。もしかしたらこの石も
大神宮と熊野神社
上野組にある皇大神宮で祭神は大日霊女命とされ天照大身神に当たり伊勢神宮の祭神である。北東にかつて熊野神社があったことから、伊勢熊野神社として勧進された神社ではないかと思われる。境内には上野組の道祖神などもまつられ、桜が咲くころには大勢の花見客が訪れる。境内の北を中原通い神社の御幸道「通い道」が通過しており、道わきにはかつて御腰掛ではないかと思われる大きな平らな石があったという。東隣の熊野神社は、明治以降に氷川神社に合祀され、今は社の基礎の石積がわずかに残るのみである。なお、付近は上野遺跡という縄文時代の遺跡である。
簡易なコンクリート舗装の下から石畳がのぞく
大神宮に向かう参道と思われる
道すがら石原さんの作業小屋で3輪ミゼットを発見
収穫したばかりの柿のプレゼントも
蚕影さんと馬頭観世音
雨宮観光ぶどう園さんで小休止
丸藤葡萄酒さんを見学
大村社長と狩野工場長から説明
藤井のミステリー
共同井戸の跡(扇央の部分)

扇状地には不思議なことがあります。扇状地の扇頂部や扇央では水が地中深く浸み込み、一般的には水が湧かないはずなのに、扇頂部には諏訪の水、扇央部の藤井では湧水が地名の由来となり、井戸掘られ暮らしを支えていることです。


阿弥陀寺
  

南組の富士井山阿弥陀寺は浄土宗下岩崎の正福寺の末寺で、天正10年(1582)に開かれたという。阿弥陀寺は明治初期の廃仏毀釈のおり、無住無檀家だったため、廃寺になりかけたとき、藤井の人々が家にある墓を移し、檀家となり守った記録が残されており、このため堂の南側にある墓地には様々な宗派の墓標が見られます。北向きの堂の前には、様々な石仏が並べられており、この中に戦国時までさかのぼる阿弥陀三尊を刻む石仏があります。
阿弥陀寺の火の見櫓
阿弥陀寺の本堂脇に建つ火の見櫓は、戦後作られたもので、今は使われていませんが、半鐘も付いており、昔のまま保存されています。不思議なことは、見張り場となるテラスに地上から手が届くほどの低い火の見櫓で、設置された当時は、藤井の村の最も高台にあったので、この高さでも十分役割を成したのではないかと思われますが、もしかすると、日本一低い火の見櫓かもしれません。
中世にさかのぼると思われる石仏
庚申塔
藤井の堤

藤井には村内に半内田、上野、富士井田、山田の4ヶ所に堤がありました。半内田と上野の堤は江戸時代の絵図にあり、山田の堤は明治の初めに造られた新堤です。現在、残るは富士井田と山田の堤だけで、今でも豊かな水を貯めているのは冨士井田の堤だけになってしましました。藤井は扇状地のため水田が作れるのは、半内田の溜池の下に久保田、上野の下に狭間田、冨士井田の下に前田、山田は山田と田の付く地名があり、いずれの場所も、京戸川の旧流路とされる沢状地形に当たります。
釈迦堂
中央道上り線釈迦堂パーキングの北側にあります。この堂の周辺の地名が釈迦堂で、この地名が遺跡名、パーキング名、博物館の名の由来となりました。現在村名となっている千米寺の釈迦堂の跡と伝えられていますが、現在どもお堂の中には縄文時代中期後半の石棒という信仰の遺物が祀られており、釈迦堂遺跡群三口神平地区の由来と三口神は「おさんごうじ」とか「みしゃぐじ」とも呼ばれ、石棒を祭ることが多いいとされ、あるいは三口神を祀るお堂「しゃごどう」が由来かとも考えられています。
中世の五輪等と三口神の石棒が重なっている
(仏と神のハーモニー)
千米寺の石尊さん
 中央道の千米寺端の北詰にあります。用水路を池のように広げ、その中央に「石尊」と刻む巨大なせきそんさんが建っています。石尊さんは神奈川県の阿夫利神社がある大山さんの信仰で、阿夫利神社を雨降り神社とし、江戸時代の後半から雨乞いの神としえ信仰が広がりました。晴天が続くと用水路を止め、石碑の回りに池を作り、「六根清浄 ざんげざんげ」と唱えながら、碑に水を浴びせ、代表者が大山詣でを行い、お札を授かってきたと伝えられます。
千米寺という部落
甲斐国志は千米寺には銭米寺という寺がかつてあり、釈迦堂はそのお堂の一つであると記しています。千米は天台宗に伝わる菩薩禅の禅法(ぜんぽう)あるいは善法が変化したのではないかと推定されるものの定かではない。ただ、千米村の家並は、一本の縦道に沿い並び、その中ほどに大きな鍵の手があり、通常、傾斜道に沿い家並みを配置するのは峠道の手前の集落とか、寺院の参道に沿い形成された門前町など、造成が大変なことから、そうせざる得ない条件の下に成立する村落形態である。京戸の山奥に創られた東泉寺と千米寺、石村石林寺の伝承は、菱山の宮宕山の山内に創られた天台宗の山岳寺が、14世紀に山裾の現三光寺の地に移され、その後、等々力から三光寺の跡に残された北の清浄院を守るため福泉寺が移されてきたという経緯と良く似ている。
柏尾道の道標
千米寺の中央道をまたぐ橋の近くの道脇の畑に西を向いて建っています。笹子峠口にある勝沼柏尾と御坂峠口にある黒駒を結ぶ道は、勝沼方面からは黒駒道、黒駒方面からは柏尾道と呼ばれていました。この道標には「従是 左かしを道、右さくばミち」と記され、柏尾道と山畑にいたる道と間違えないように設置されたものですが、場所は移動された可能性があります。
千米寺古墳群
 6世紀の終わりから7世紀の初めにかけ、京戸川の右岸に横穴式石室を備えた古墳が京戸川右岸に川に沿うように、東西800m南北380mほどの範囲に50基近く築かれ、墓域として利用されていました。築かれた古墳は、扇状地でも最も下った所にある大塚古墳が最大で、昭和55年に石室内部の調査が行われ、古墳の直径18m以上でその内部に長さ9.5m、幅2.25mを測るが、最上部には直径が3mほどで、その内部に長さ2.5m幅0.8mしかない小規模な古墳が近接してあり、扇状地を登るに従い古墳の規模が小型化しており、造られた年代も新しくなるのではないかと考えられています。
一番大きな大塚古墳(初期)
甲府盆地のパノラマ

藤井地区から千米寺地区は甲府盆地の東端、教科書にも出てくる京戸川扇状地にあります。標高は500 m前後で南アルプスを背にした甲府盆地の眺望は、最高の絶景ポイント、とくに桃の花の季節は見事です。
 
昼食

フットパスの会が心をこめてつくった すいとん お漬物 おにぎり
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