2014 勝沼フットパス・ウェルカムツアーIN下岩崎 11月24日(月)

  甲斐源氏の一族
 岩崎氏の里をめぐる



ワイン産業の発祥地・下岩崎に建つ正宗寺は、甲斐源氏の一族岩崎氏の菩提寺であったという
フットパスの散策を通じて、地域の内外の皆さんに勝沼の自然や歴史文化、風土を楽しんでいただこうと「勝沼フットパスの会」では、今年もウェルカムツアーを開きます。今回のコースはワイン産業の発祥地であり、甲斐源氏の一族・岩崎氏のふるさとでもある下岩崎をめぐります。


ワインだけではない
下岩崎の歴史

■勝頼公落去の道
正宗寺や宮光園の前を通り上岩崎へ通じる旧道は、鎌倉街道であったという。天正10年(1582)勝頼公主従が落ち延びていくとき通った道だといわれ、立ち寄った正宗寺は、追手の織田軍に焼き払われたと伝えられる。

■岩崎氏初期の館跡か
蓮華寺が建つ一帯は、中世に甲斐源氏の一族、岩崎氏の初期の館があったという。その後、南東の離れた場所に移ったが、鎌倉街道や菩提寺の正宗寺にも近く、周辺には掘割や土塁の痕跡が見られることから、頷ける話である。


募集人数 53人

主な行程:約3km 所要時間:約2時間30分
スタート:ぶどう橋〜正宗寺〜鎌倉街道〜大泉葡萄酒前〜蓮華寺〜徳本顕彰碑〜葡萄の里の碑〜勝沼醸造前〜鉢塚古墳前〜新道〜龍憲セラー・日本初のワイン醸造会社跡〜ゴール:川口園(ほうとう、ワインサービス等)



 
受付の様子


メインガイド(めずらしく男性のみ→こんなのはじめて)



 
 始めの会


 
 
 日川水制
明治40年8月の大水害は山梨県内に甚大な被害をもたらした。災害後明治44年から大正4年にかけて国の直轄工事としてT字型の堰堤が74基造られ、流域を大規模災害から防いだ。両岸には桑畑は32ヘクタールのぶどう畑が出現し、防災ともにぶどう産業の発展にも貢献した。



●四(し)ヶ村堰
 日川左岸の祝橋と葡萄橋の間で取水する北野呂、南野呂、中尾、矢作村の用水で、小泉稲荷社の西で段丘崖上に到達し分水が始まる。この水は野呂や中尾の条理水田に供給されていることから、堰の建設された年代は中世を遡る可能性も考えられる。

●道玄坂
 正宗寺の境内西側から日川の断崖を下る坂。この道は鎌倉街道の伝承をもち、江戸時代には御巡検道とも呼ばれていました。坂の名は正宗寺の15世紀以前の旧寺名、道源山真教寺の山号とかかわるものと考えられ、この道が古道であることを伝えているのではないかとおもわれます。正宗寺の南西隅で、4百数十年前、 武田勝頼が落去のおり通ったとされる中世道と交差しています。







●正宗寺と箱式墓
祐谷山正宗寺、浄土真宗、寺記によれば元享年間(1321〜1323)に鎌倉の五郎入道正宗により開かれ真言宗道源山真教寺を始まりとし、岩崎氏の祈願所であったが、廃跡となり武田信春の子左馬助信継が再興し、応永29年(1422)に浄土真宗に改宗し正宗寺となったという。下って天正10年(1582)武田勝頼一行が東へ落ち行くときこの寺に立ち寄り、追っ手の織田勢により火をかけられ全山消失し、天正13年駒飼の渡辺肥後尉により再建されたといいます。現在の本堂は江戸時代後期に再建されたものですが、本堂の柱の一部に天正再建の古材が使用されています。総門、中門、宝蔵、庫裏、玄関、太子堂を備え、本堂前には亀のマツとカエデの巨木があります。





 また、本堂の南西から裏手にかけて、四枚の切り石を組み合わせ、上に宝珠付きの笠で蓋をする、箱式墓があります。四方壁石に多くの戒名と命日が刻まれていることから、いわゆる火葬の納骨墓で、江戸中期で慣習が途絶えたことが分かり、墓地全体で占める割合が少なく、すべてが本堂近接してあることや、代々の住職もこの形式をとっていることなどから寺の関係者など、限られた集団に伝えられた墓制であると思われます。近在では、浄土真宗の等々力の万福寺、南野呂の延命寺の墓地に一基ずつあります。






●蓮華寺
 寺記によれば、妙法山蓮華寺は天台宗宗蓮寺と称し、江戸初期に日蓮宗に改宗し、現在の名になったという。岩崎氏の祈願所正宗寺に南側にあたることや、境内を含むこの一帯には太郎堰の流れが方形に区画するようにあること、現在の下岩崎字立広にある岩崎氏館跡が要害の地に構築されているなど室町時代以後の様相を示していることから、鎌倉時代初期に遡る岩崎氏の初期の館が置かれた場所の候補地となっている。
現在の本堂は明治6年学校制が始まったとき、下岩崎学校(後の祝学校)として明治9年に擬洋風建築として祝学校が完成するまで利用された。本堂の他、鐘楼門が残り、西方から鐘楼門前に至る参道が残る 本堂に向かって右手側に芭蕉の句碑 左手に元住職の福島夫妻の歌碑





●岩崎氏          
岩崎氏は武田氏の信光の子、信隆が岩崎氏を名のったのに始まり、寛正年間(1460〜65) 守護武田信昌と守護代跡部氏との下克上の争いの中、武田側に与して滅んだと考えられています。この間、(昔は、武士や僧侶の社会の筆頭格)武田氏の棟梁職を現す、御旗、楯無鎧を相伝し、直信のとき武田信重に伝えたといいます。末裔が岩崎弥太郎(三菱創業者)※岩崎家は甲斐源氏武田・岩崎一族の末裔を称する


●金山神社とエノキ       
 金山神社の境内にあります。2本あり、目通り3.8mと2.7mを測ります。境内には道祖神場と「徳本の碑」があります。金山神は、鍛治屋や精錬場などにかかわる人々の信仰の対象となることが多いといわれ、付近には番匠田などの地名ものこっており、野呂の金山神社などとの関係も今後検討が必要な神社ではないかと思われます。





●葡萄の里碑
 下岩崎と南野呂の境に建つ。建立は大正15年で、この年、祝村を訪れた、梨元の宮に葡萄の産地であることを示すため建立されたと思われ、宮光園で発見された35mmの映画フィルムの冒頭にこの碑の映像が収められている。



●勝沼醸造



●ぶどう冷蔵庫
地形を利用したぶどうの出荷調整のための冷蔵庫







●中瀬天神の献燈句碑
 「白梅の雲まに吹は□□□□□」 芝□
 現在中瀬の道祖神場に移された天神碑と石燈篭は、祝小学校西の集荷所にあったもので、文政二年(1819)に内田庄兵衛、 雨宮彦兵衛ら四人により献燈された石燈篭の竿に刻まれている。作者芝□は、定かではないが、幕末から明治に活躍する下岩崎村戸長雨宮彦兵衛は俳号を芝原一陽と名乗っており、芝原が屋号であるなら燈篭の彦兵衛はおそらく祖父に当たる人物で、この句の作者ではないかと考えられます。



葡萄酒醸造開始の地
 明治12年(1879)、祝村葡萄酒醸造会社はフランスへ派遣した高野正誠、土屋助次郎の帰りを待ち、その年の秋に収穫した甲州葡萄で初めて葡萄酒醸造を行いました。この葡萄酒醸造は、社長の雨宮彦兵衛の建家と酒蔵、さらに日本酒の醸造器具を借りて行われました。出来上がった葡萄酒は30石(約5400l)程ですが、これが勝沼町で最初に作られたワインです。 この時作られビン詰めされたワイン2本が現在でも、高野正誠生家に伝えられています。
 社長の雨宮家は下岩崎1855番地にあり牛太夫の名をもつ老松が残されています。旧屋敷の道を隔てた南側1856番地には現在龍憲セラーがあり、明治初期、 雨宮彦兵衛氏所有の宅地となっており、後年、土屋助次郎がフランスで学んだ地下蔵を備えたワイン醸造所を建設する経緯から見ると、この場所が最初の葡萄酒醸造が行われた所であると考えられます。
 

K龍憲セラー
日本最古のワインセラー。フランスに渡った土屋龍憲が本格醸造を始めた場所。明治から大正にかけて開通した中央線の技術がセラーづくりに応用されています。その後の工事で剥離剤としてつかった天井の新聞紙も笑えます。

宮光園と葡萄酒資料館         
 宮光園の名は、明治のワイン醸造家宮崎光太郎に由来しています。宮崎光太郎は、祝村葡萄酒醸造会社でフランスより帰国した高野正誠、土屋助次郎に葡萄酒醸造技術を学び、明治19年会社が解散すると、その醸造器具を引き取り、土屋助次郎とともに葡萄醸造を始め、販売のため「甲斐生商店」設立し、明治23年には独立し、宮崎式と呼べる葡萄破砕機を開発、明治26年頃には自宅の北側に葡萄酒醸造所(現在半地下式の葡萄酒保管庫と蒸留に用いたレンガ積み煙突が残る)を建設し、さらに明治37年には道を隔てた南側に宮崎第二葡萄酒醸造所(現在葡萄酒資料館)を建設し、海老印、丸二印、大黒天印の葡萄酒を世に出し、葡萄酒醸造を産業として確立しました。宮崎家に伝わる明治中頃に写した葡萄酒醸造風景の写真や、この写真の背景となり現在も邸内に残る建物群は、本県における明治時代のワイン生産の様子を知る上で貴重な産業遺産となっています。






M日川
大菩薩峠の南麓に源を発し、笛吹市石和で笛吹川に合流する一級河川。一般にはヒカワと呼ばれるが、勝沼ではニッカワと呼ぶ、その由来は武田勝頼一行が田野で討死した折、三日間にわたり川が血で赤く染まったことから三日血川とよばれ、ニッカワになったという。その他、祝地区の氏神が氷川神社(ひかわじんじゃ)であることから、ヒカワと呼びすてることを避けたとも考えられる。

●日川水制
明治40年の大水害、長雨と豪雨が重なったもの。甲府盆地に山梨県で最大級の被害が出た。
町内の日川、重川、鬢櫛川をはじめ県内180余の河川が決壊し山梨県で最大級の被害がでた。長雨と豪雨が重なったもの。笛吹川に大量の土砂を流し込む目川の中流域3km 河岸に74基のT型頭部もつ水制辞を配置し河道を把り下げ、浜路の固定と両岸の土砂流失を防止した内務省直轄工事。明治44年(1911)10月から大正4年(1915)まで行われた。総工費は294,488円。この工事により明治40年の水害で川原と化した日川両岸に32haの葡萄畑がよみがえった。町内では太郎橋から野呂橋の間に74基の堤防中46基が確認されている。
元は桑畑

●日川でのぶどう栽培
明治40年(1907)8月の集中豪雨により、曰川の川岸一帯は上流からの土石流により、一面の桑畑は河原と化してしまった。その後内務省直轄の曰川砂防工事が行われ、大正4年ころから元の所有者に返還が行われた。砂地となった河原の一帯には葡萄が植えられ、32ヘクタールに及ぶ葡萄畑が生まれることになった。
 これらが大正8年から10年ごろ一斉に結実しだし、大正2年(1913)に新設された勝沼駅から出荷されると価格暴落が起こり姑めるようになり、この対策として葡萄冷蔵庫を建設し低温保存により新鮮さを保ち計画的に出荷する方法が生み出された。戦後は電気冷蔵庫が普及し、その役曰を終えることになるが、いまでも20箇所以上の葡萄冷蔵庫が残されている。


----

岩崎氏館跡
館は坂下川に望む断崖を利用して築かれており、立広の砦とも呼ばれています。方一町の規模をもち、東と南、西に堀を穿ち、さらに土塁を巡らし、西南の隅には望楼の跡と考えられる高台も残されており、坂下川に面した北西隅には虎口と思われる切れ込みがあります、さらに館内部には、勝沼氏館跡の15世紀の第1期遺構で確認された、郭内を東西に区分していたと思われる施設の痕跡も見られます。昭和50年に勝沼バイパスの建設に伴い南の堀が発掘調査され、15世紀代の遺物とともに、幅7.6m深さ2mの南辺の内堀の一部が幅40m近くに拡大されている特異な防備施設をもつことが確認され、さらに内堀の外側に小規模な堀があることも確認されています。平成6年西堀の西脇の調査が実施され、新たに外堀が発見され、近接二重堀構造であったこと、さらに当初は西側の中央部に門を有していた可能性が高いことなどが分かりました。





●蓮華寺の芭蕉句碑
 「いざさらば雪見にころう處迄」芭蕉
 「此界におわすが如ししぐれ佛」ふじい
 蓮華寺本堂の西にあります。句碑は石積み上げた塚の上に立ち、正面に芭蕉塚と記し芭蕉の句を刻み、天保14年(1843)10月に昌平により建立されたもので、追悼の句が側面に添えられています。


I蓮華寺の芭蕉句碑 日蓮宗
立正寺同様の題目塔がある。中世からの主要街道に面し岩崎氏の住居があったとされる。鐘楼(しょうろう)門を入ると右手に芭蕉の句碑がある。「いさゝらは雪見にころふ處まて」貞亨4年(1687年)、『笈の小文』の旅の途中、名古屋の風月堂で詠まれた句である。芭蕉44歳の時のこと。





 
 
inserted by FC2 system