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集合場所として使わせていただいた観光ぶどう園主の川崎さんからぶどうの話や干し柿の話を聞きました
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互い違いに掛ける甲州百目柿とすだれ状に掛ける
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出発前にフットパスの会、会長から挨拶 |
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続いてガイドの自己紹介 |
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第1班出発 |
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高岩山 金剛寺
寺記では、1460〜1466 柏尾に建立した野呂寺の跡であるとされています。天正十年(1582)武田勝頼は織田軍に追われ、頼りにしていた小山田氏に裏切られ信勝ら北条婦人ともに、自害し武田家は滅亡。勝頼の一行と同行した人に曽根源助という家臣がいました。勝頼の命で遺物(肖像画など)を高野山引導院に届けました。その後高野山に行って収めたてそのまま高野山に留まり「源心」と称し後に帰国し、ここ高岳山金剛寺に入りこの寺を中興(再興)して住職に全うして亡くなりました。 |
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江戸時代に急傾斜地に土留めで竹を植えなさいというお達しがありました。勝沼は孟宗を選ばず、から竹、とうちくを選んだ。これらは葡萄の竹棚 竹籠となりました。もう今は竹をつかわないので荒廃していますが、これこそがぶどうの産地の証です。 |
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待受けガイド 三枝さんによる利右衛門稲荷のお話
上岩崎字竹原1012番地の畑の隅にあるお稲荷様は利右衛門稲荷と呼ばれ勝沼町を代表する民話が伝られています。
※竹原に稲荷田と呼ばれるところがあります。さる昔、利右衛門さんがお蚕雇いをさがしにでかけた。とある道で美しい女の人に出会う。利右衛門さん「このあたりに誰か手伝いをしてくれる人はないか」とたずねたところ、「それなら私に手伝いをさせて下さい」という。
もってこいとばかりに頼み、家事の手伝いなどしてもらっているうち、結婚し子供二人が生まれる。
子供もすくすく育ち二、三才になる。口もきくようになったころ、母親と昼寝をしていたところ、母親のおしりからしっぽが見えた。子供はおどろいて「おかあちゃんにしっぽがある」とさけんだ。
その夜、母親は家を出てかの田んぼに行った。明日は田植えで忙しい、一反歩ばかりの田に苗をちらしながら「子のあるうち(家)を出るからにゃ、おいぼもさけよ(生穂も栄えよ)、かくれぼもさけよ(隠れ穂も栄えよ)」と唄いながら歩きまわったとか。
利右衛門さん、翌日この田んぼに行ってみると、田一面に狐の足跡があり、村人も皆検分したあと、そのままにしておいたところ、秋になるとたくさんの米が取れた。
利右衛門さんが田に祭った稲荷は今もあります。※
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鉄棒棚実験園
勝沼における葡萄づくりは、江戸時代から竹棚を用いていましたが、明治12年上岩崎の雨宮作左衛門が、鉄棒を用いることを考案し、現在の第一葡萄園で実際に架されました。
この棚は1間四方に立てられた栗杭の上に竹のかわり鉄棒をもって棚を架けるもので当時は鉄棒棚と呼ばれていましたが、鉄棒の値段が高くまた入手しにくかったことから普及するまでには至りませんでした、しかし、この鉄棒棚が次の針金棚を生み出す大きなきっかけになりました。 |
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平安時代の末期、壇ノ浦の合戦の翌年に上岩崎に住む雨宮勘解由(かげゆ)が石尊山の祭りから帰る途中、山ぶどうの変性種を見つけ家へ持ち帰り苦心して育てたところ、翌年見事なぶどうが実ったという。奈良時代が発祥という大善寺伝説と並ぶ甲州ぶどう発祥の伝説。 |
戦国時代の終わりころ、諸国を行脚していた名僧であり漢方医でもあった徳本上人が上岩崎に立ち寄った際、株仕立てのため栽培に苦労していた村人に、棚栽培を伝えたという。 |
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大正11年(1922)、後の昭和天皇が東宮皇太子のとき、上岩崎の第一葡萄園を訪れ、ブドウ栽培状況をご観覧されました。
この様子は宮光園で発見された35ミリ映画フィルムのほか、記念写真なども残されています。この行啓を記念し、第一葡萄園内には皇太子が御立ちになった場所に記念碑を建て、当時の祝村では、上岩崎に東宮行啓記念碑と記念公園を整備しました。この整備された直後の公園の姿は、宮光園の35ミリ映画フィルムの中で、大正15年梨本宮が祝村を行啓された際、この公園で行われた歓迎式典の様子の中に見ることができます。 |
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現在の県道塩山市川大門線は、かつての黒駒道の役割を担うよう整備された道です。甲斐の国中地域は盆地地形であることから、富士川沿いを除けば、四周の国々や地域との交流には峠道が使われており、九ツあることから九筋と呼ばれていました。その一つ、笹子峠を越え、都留郡や武蔵・相模の国を結ぶ道は江戸時代以後甲州街道と呼ばれ、峠の入り口にあたる柏尾・勝沼は笹子口の拠点の一つとなっていました。北隣の大菩薩峠道の出入り口は萩原口、南隣の御坂峠の出入り口は黒駒口と呼ばれており、この峠口を結ぶ連絡路が整えられていました。それぞれの連絡路は向かう峠口の名で呼ばれ、柏尾から黒駒口への道は黒駒道、逆に柏尾に向かう場合には柏尾道と呼び、随所に道標(みちしるべ)が設けられていました。 |
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氷川神社の神主の高野さんから祖父である高野正誠の話も聞かせてくれました |
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高野正誠(たかの・まさなり)は嘉永5年(1852)、高野正吉の長男として上岩崎村に生まれました。明治10年(1877)祝村葡萄酒醸造会社の技術伝習生として土屋助次郎(龍憲)とともにフランスへ留学し、明治12年5月帰国し11月に初めてワイン醸造を手掛けました。その後、ワイン醸造、ぶどう栽培の技術指導に当たるとともに、「葡萄三説」を著しました。現在、高野家には渡仏の資料と共に明治12年に醸造されたワイン2本が伝えられています。 |
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氷川神社 |
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上岩崎、 下岩崎、 藤井3村の産土神で素盞鳴(すさのうの)尊(みこと)と国(くに)常(とこ)立(たちの)尊(みこと)をまつります。 |
随神門、 拝殿、本殿、神楽殿を備えています。本殿は正面2間、側面1間の入母屋造り、1間向拝付きで18世紀頃の建築ではないかと思われます。本殿内部に保存されている寛正2年(1461)の棟札は、15世紀中頃に始まった守護武田信昌派と守護代跡部派との下克上の争いの中、守護派として戦った岩崎氏の氏神を跡部氏が修築したことを示しており、岩崎氏の滅亡と守護武田派が苦境に陥っていた様子を伝える貴重な中世文書の一つに数えられています。拝殿は正面6間、側面3間で後に向拝が付されていますが、記録から文化11年(1814)以前の建物ではないかとおもわれます。随神門や神楽殿が備わっているのは勝沼町内では氷川神社が唯一です。神楽殿では毎年祭礼のおり、八代町永井の神楽が奉納されています。また床下に木製花火筒が1本半分保存されており、花火筒の構造を実見することができます。 |
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随神門のこの神像、実は盗まれてしまい、当時の氏子総代さんがこしらえたものでした |
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本殿内部に保存されている寛正2年(1461)の棟札は、15世紀中頃に始まった守護武田信昌派と守護代跡部派との下克上の争いの中、守護派として戦った岩崎氏の氏神を跡部氏が修築したことを示しており、岩崎氏の滅亡と守護武田派が苦境に陥っていた様子を伝える貴重な中世文書の一つに数えられています。拝殿は正面6間、側面3間で後に向拝が付されていますが、記録から文化11年(1814)以前の建物ではないかとおもわれます。随神門や神楽殿が備わっているのは勝沼町内では氷川神社が唯一です。神楽殿では毎年祭礼のおり、八代町永井の神楽が奉納されています。また床下に木製花火筒が1本半分保存されており、花火筒の構造を実見することができます。 |
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岩崎氏館跡の北側、上岩崎との境、字「桜木」の交差点に六地蔵塔の六面の地蔵部分だけが残されており、桜地蔵と呼ばれて、提灯なども灯し地蔵祭りがおこなわれています。桜地蔵と呼ばれる地蔵は勝沼と等々力にあり、いずれも六地蔵塔が祀られており、戦国時代から江戸初期の石造物ですが、早くにその名の由来は、失われてしまったようです。 |
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山梨ワインオーナー野沢さんより |
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上岩崎と下岩崎の境に御腰掛という屋号の家があります。家の北側、新道との間に木の社が祀られている大きな岩があります。この岩が御腰掛石で御腰掛明神とも呼ばれます。古くは、毎年11月一宮浅間神社の女神のご神体が一宮町鈴郷の山宮にお戻りになると、勝沼町中原の通(かよい)神社の男神ご神体を神主が携え、夜半に出御し夜明け前までにも環御する通い祭が行われていました。この御幸道中の途中、1〜2キロメートルごとに休憩所として腰掛石が据えられており、祭りが行われなくなって以後、多くの腰掛石は伝承を残して失われてしまいましたが、上岩崎の御腰掛石は、昔ながらの姿をそのまま伝えており、たいへん貴重な存在となっています。 |
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現在の県道田中勝沼線は明治6〜7年にかけて、甲州街道の一町田中から柏尾までの日川右岸路の迂回路として整備された道で、田中から分岐しそのまま東進し下矢作、小城、中尾、南野呂、下岩崎、上岩崎を抜け、日川を渡り柏尾で甲州街道に合流し、建設された当時は祝村大道と呼ばれていました。日川を渡る橋は、長さ13間幅9尺で明治8年(1875)6月1日に開通し、祝橋と名付けられました。
上下岩崎は、勝沼と並ぶ葡萄の産地でしたが、江戸への出荷は勝沼宿の問屋、荷問屋へ依頼しなければならず、江戸時代から、度々葡萄出荷をめぐる対立が起こっていました。明治6年宿駅制度が廃止されると、宿場を経由しない新道の開設が祝村の悲願として実施されました。この道の開通は、さらに横浜へ向けた生糸生産も活発化させ、新道に沿って製糸工場の居並ぶ姿を生み出しました。すすき町は、製糸工場で働く職人の町屋として発達した横町で、この一帯で都市化の産声が上がり始めていたことを伝えています。
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ゴール地点(古柏園さん)にてほうとう
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